
左から営業担当の大川路生さん、代表取締役社長の大川正記さん、専務の大川幹二さん
家族で続けてきたチームワークの強さ
千葉県旭市に工場があるニットメーカー株式会社オオカワさんは、1937年に漁網作りから創業し、現在も活躍し続けています。ローゲージニットからハイゲージニットまで様々な編み機を揃え、特徴があるものづくりと向き合い、柔軟な姿勢でデザイナーやアパレルメーカーの期待に応えるものづくりを脈々と続けています。今回BLUEKNITに参加する新ブランド「NUONE」は、オオカワさんと島精機製作所の企画がコラボレーションで立ち上げることとなり、これから共に発展を目指していきます。
そこで、社長の大川正記さん、兄で専務の幹二さん、息子で営業担当の路生さんとBLUEKNIT storeのクリエイティブディレクターを務める梶原加奈子さんとの対談の模様をお届けします。

工場に向かう編み立て中の成型ニット
大川社長が受け継いできたもの創業からの歴史を語る
【梶原】
千葉県旭市で創業し、今年で88年目と伺いました。長年活躍し続けてきた中で色んな事を乗り越えてきたと思いますが、ぜひ創業当時のお話を聞かせてください。
【大川社長】
創業した1930年ごろは、漁業が盛んな土地柄でもあったので、漁網を造ったり補修したりすることを家業にした後、東京都墨田区の繊維問屋さん向けに手袋の製造販売を始めました。その後、手袋の製造販売から、アメリカへの輸出用に、手横編み機での太ゲージのバルキーセーターの生産が始まりました。幼児服や子供服の生産をするようになり、1960年頃には、東京銀座の子供服専門のお客様と直接のお取引をさせていただく事ができるようになりました。
並行して、大手のアパレルメーカーさんとのお取引もさせていただき、赤ちゃん用のベストや子供服などを主体に、ラム素材の定番セーターなども生産し、「手横編み機・半自動編み機・自動機」を使った生産も行うようになりました。徐々にではありますが、「自動化」に移行していったと思います。

右奥から営業担当の大川路生さん、代表取締役社長の大川正記さん、専務の大川幹二さん
左:BLUEKNIT クリエイティブディレクター梶原加奈子
【梶原】
創業当時から家族経営を続けていますね。旭市は元々ニットメーカーさんが多かった産地だと思いますが、現在はどのように変化しましたか?
【大川社長】
1960年代は千葉県旭市にニット工場が15社あり、最盛期の2000年頃は30社存在していましたが、今は3社のみになり、編み立てだけをしている工場が2つ、生産販売まで関わっているのが弊社のみとなりました。
【梶原】
ニット工場が沢山存在した産地だったのですね。その中で唯一オオカワさんだけが今でも活躍していますが、なぜ残り続けることができたのでしょうか?
【大川社長】
まずは祖父を中心に、祖父の連れ合い、祖父兄妹家族みんなでやっていこうという家族の団結力が強かったですね。祖父がリーダーシップに長けていて、先見の明もあり、未来を見据えて率先していたので、一緒に働く人達も馬力があったんだと思います。ついてきてくれた従業員のおかげも大きいですし、家族の役割も経営、営業、技術のバランスが取れていました。
【梶原】
先々の展開を考えながら仕組みを作っていかれたことが、産地の変化に適応していけたのだろうと思います。さらに、みんなが熱心にやれる環境だったんですね。
【大川社長】
そうですね。発注いただく内容もロットが多く、外注さんにもお願いして、やればやるほど伸びていくのでやり甲斐もありました。しかしその後、韓国や中国、ベトナムが成長してきて、アパレルメーカーさんの発注先が急激に海外生産に切り替わっていきました。
ファッション産業が低価格帯を追い求めていく時代の流れを感じましたね。
【梶原】
2000年以降、アパレル不況時代に入り日本産が減少していく時期に、どのような行動をしたことで乗り越えていきましたか?
【大川社長】
営業は私の父である当時の社長がしていましたが、1985年ぐらいから大きな商社との取引がありましたので、海外生産が広がってきた時期でも安定した発注もあり、この危機を乗り越えていくことが出来ました。
また、デザイナーズブランドと直接やり取りする機会も多く、こだわったデザインのニーズに対応し続けてきたことで、お客様が離れなかったのではないかと思います。
私で3代目になりますが、祖父からの話を聞くと、楽だったことはほとんどなかったような気がします。時代の節目で、「明日の不安」が毎回あったと聞いています。容易ではなかったと思いますが、「明日への希望」に切り替えて進んできたと思います。現在も社員みんなの頑張りがあり、厳しい状況でも互いに信じ合いながら、前を向いて少しずつでも進んでいこうとしています。
【梶原】
やはり衰退する繊維産業の中で経営を続けていくことは並大抵のことではないですね。長きにわたって続いてきた秘訣を教えてください。時代の変化に対応するためにどのようなことを心がけていますか?
【大川社長】
お客様のご要望に、出来る限りご対応させていただき、社員みんなが希望を持って働ける職場になっていけたら良いと思います。
苦しい時には、先代の父や、昔の先輩方の顔を思い出しながら気持ちを強く持つように心がけて、できる限り「笑顔」を忘れないようにしていますね。そしてこれまでご支援をいただきましたお客様と社員の皆さんやご家族の方々に「感謝」も忘れないようにしています。これからも、変わらずに多くの皆さんと一緒にお仕事させていただけたら、それ以上の幸せはないと思っています。

仕上がりの検品作業

リンキング作業
一致団結した家族経営と進歩することへの信条

会社に飾られている信条
【梶原】
社長と専務はいつごろから工場に入ったのですか?
【大川社長】
私は、父の知り合いから紹介いただき、小売専門店で販売の経験をしてから工場に入りました。その数年後、専務が電機大学を卒業後すぐに工場に入りました。父としてはいずれ、作る方から製品販売することまでを考えていたので、私は3年間小売の経験を積みました。始めは洋服やファッションに全然興味がありませんでしたが、その頃DCブームを目の当たりにし、父も40代ぐらいで若くフットワークがよかったので、一緒にいろんなアパレルメーカーさんに行かせていただき勉強し、ファッションに興味を持つようになっていきました。

代表取締役社長の大川正記さん
【梶原】
ホールガーメント®は最初、専務が島精機製作所さんへ行って学んだんですね。最初の頃は大変でしたか?
【大川専務】
徐々に学んでいきました。手編み機の時代から成型機になって、次にインターシャ機になってと、いきなりドンとホールガーメント®になった訳ではなかったのでちょこちょこステップアップしていった感じです。
【梶原】
編み組織とかパソコンで見て組むというのは違和感なかったのでしょうか?

専務の大川幹二さん
【大川専務】
理系で機械系でしたので、プログラム関係も問題ありませんでした。電気大学に行って、好きな師匠がいる大手のメーカーに行く予定だったのですが、現場で大した仕事ができないと師匠から聞いて、じゃあ家業に入ろうかとなりました。その頃ちょうど島精機製作所のコンピューター編み機が出始めた時期で、SECという今の成型機ではなく、大きなコンピューター編み機が出たタイミングでした。社長も触ってみましたが得意ではなく私が加わることになりました。機械いじりが好きだったので、親がそういう役割に育てたんでしょうね。
【大川社長】
父は、私の姉と妹にデザインやパターンをやらせたかったので当時二人を文化服装学院に行かせていました。専務が機械、私が営業、姉と妹が技術のパタンナーとして商売ができるように。妹は現在もパターンを担当しています。
【梶原】
お父様のプロデュース力に感銘を受けます!家族が一致団結して協力し合うことで成長してきたのですね。ピンチはお父様が先の仕掛けをしながら乗り越えてきたようですね。
【大川社長】
気がつくとバブルからバブル崩壊という時代に身を置いていました。その間は専務と二人三脚でやってきたようなものです。他社よりも先を行った技術がないとお客様がついてこないと思ってやってきました。

熱心に仕事をしている様子
【梶原】
専務の技術力もあり、お客様が離れなかったんですね。御社には15ゲージ、18ゲージがありますが、10年くらい前だとまだハイゲージを使いこなすことが難しかったと思うのですが、難しさがありましたか?
【大川専務】
格別でした。まだ乗り越えられてはいなく神経を使いますね。お客様からの18ゲージを入れて欲しいという要望に合わせて機械を導入しました。 アパレルメーカーさんからは、こういうものができないかと言われ、それに応えるようにやってきました。
また業界ではここは田舎なのですが、アパレルメーカーさん達と関わりやすい立地の中でやれたのはありがたかったです。新潟の五泉のニット商品を見て、必ずついていって、追いつけるように頑張ろうと思ってやってきました。アパレルのパタンナーさんに教えていただきながら、そして島精機製作所さんにもフォローしていただいたので、技術が進歩できたと思います。

工場にあるニット機
中編 へ続きます。(11月3日公開予定)

BLUEKNIT storeクリエイティブディレクター
梶原 加奈子
北海道札幌市生まれ。多摩美術大学デザイン学部染織科卒業。
(株)イッセイミヤケテキスタイル企画を経て渡英。英国王立芸術大学院(RCA)ファッション&テキスタイルデザイン修士課程修了。2008年KAJIHARA DESIGN STUDIO INC.を設立。
日本産地の素材を集結させたテキスタイルブランドKANA COLLECTIONを立ち上げ、海外のハイメゾン向けに素材を提案。クリエイティブディレクターとしてもブランディングや地域活性化と連携。札幌の森にショップ、ダイニング、ゲストハウスの複合施設「COQ」を立ち上げ、自然と共に過ごすサーキュラーライフバランスを発信している。
2022年より(株)島精機製作所が立ち上げたサステナブルECモール「BLUEKNIT store」のクリエイティブディレクターを務めている。
北海道札幌市生まれ。多摩美術大学デザイン学部染織科卒業。
(株)イッセイミヤケテキスタイル企画を経て渡英。英国王立芸術大学院(RCA)ファッション&テキスタイルデザイン修士課程修了。2008年KAJIHARA DESIGN STUDIO INC.を設立。
日本産地の素材を集結させたテキスタイルブランド KANA COLLECTION を立ち上げ、海外の廃メゾン向けに素材を提案。クリエイティブディレクターとしてもブランディングや地域活性化と連携。札幌の森にショップ、ダイニング、ゲストハウスの複合施設「COQ」を立ち上げ、自然と共に過ごすサーキュラーライフバランスを発信している。
202年より(株)島精機製作所が立ち上げたサステナブルECモール「BLUEKNIT store」のクリエイティブディレクターを務めている。
 
                          
                          
                         